善導寺は浄土宗の宗祖法然上人の後をお継ぎになった鎮西聖光上人が創建されました。法然上人のもとで教えを学び、生まれ故郷の九州で教えを広げるため帰って来られたのです。そして建暦2年(西暦1212年)3月に善導寺を始められたのですが、この年は宗祖法然上人が入寂された年でもあります。法然上人が亡くなられて四十九日間、英彦山権現で法然上人追善のご供養をされ、その四十九日の逮夜(前夜)、鎮西上人は不思議な夢をみられました。
中国浄土門の開祖である善導大師が夢の中で「博多に降り立ったので、汝早くわれを迎えに来るべし」とお告げになったのです。夜中に旅支度をしていたら、英彦山座主蔵慶も旅支度をしていたので、お尋ねになると同じ夢を見ておられました。何かあるということで、蔵慶とともに博多の港へ行くと船が着いており「この船に徳の高いお坊さんが乗って居られたはず」と尋ねたら「千代の松原(現在の東公園方面)の方へ行かれた」というので、蔵慶と捜していると大きな松の木の方から声がし、後ろにまわってみたら切り株の上に約30センチ程の仏様がおられました。このお姿が善導大師だということでお迎えし、お祀りするために建てられたのが善導寺でございます。
創建された当初は「博多談義所」と呼ばれていました。八十四代順徳天皇が善導大師の高徳を聞かれ「光明山悟真院善導寺」と勅号されて「善導寺」の勅額を下賜されたのでございます。度々の兵火により勅額、本堂共に消失し、文明9年(西暦1477年)に広譽上人が再建されるまでの二百六十余年のことについては、残念ながら知るすべがありません。善導寺は暦朝の天皇及び大内家、飯田家、小早川家などから崇敬を受け、さらに黒田藩の祈願所として廃藩置県が施行されるまで深い繋がりがあったとされております。
名称 | 光明山悟真院 筑前博多 善導寺 |
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宗派 | 浄土宗 |
開基 | 建歴2年(西暦1212年) |
所在地 |
〒812-0035 福岡県福岡市博多区中呉服町6-24 大きな地図はコチラ |
TEL | 092-291-0475 |
FAX | 092-291-0478 |
当麻曼荼羅とは奈良・当麻寺にある藕糸織の4メートル四方もある観無量寿経変相図の通称です。善導大師の著「観経四帖疏」を図絵したこの曼荼羅図は、鎌倉時代からの浄土教隆盛に伴い盛んに写されました。構図は内陣・外陣に分けられ、内陣は阿弥陀を中心に宝楼殿をめぐらし、宝池、宝樹に包まれ舞楽を演じ、往生人を迎える極楽浄土の荘麗なさまが描かれています。外陣は向かって左に観経六縁(阿闍世王の説話)を描き、右上から下に、釈迦が韋堤希夫人に極楽浄土の荘厳を観ずる方法を教えるもので、善導大師の観経四帖疏の特色を示しています。
浄土宗では極楽の荘厳を説き、欣求浄土を勧めるとともに、地獄の苦しみを解いています。その極楽の裁判官が十王です。当時の十王図は、画幅の隅に、「慶元府車橋陸信忠筆」とあり、南宋時代から元時代初期に折江省寧波(ニンポー)あたりで盛んにつくられたものです。陸信忠の款記のあるものはわが国で八件が知られていますが、画質に精粗の差があり、工房的制作を思わせます。十王図がもつ重要な意義は、応安6年(西暦1373年)、鞍手郡若宮御領武恒方平山寺での修覆記録があり、日本にもたらされた時期についてのひとつの論拠となっていることです。
浄土宗関係の室町時代絵画で、浄土教肖像画ともいえる円光大師法然上人像があります。円光大師像は、墨線に墨隅の単色画法で、寄進状があり寄進者と時期についても考証が待たれています。