遭難を救った船板名号

縁起のなかには、中国から日本に向かう商船に、一人のお坊さんがお乗りになられました。船は順調に博多津へ向かっていたが、途中から天候が悪化し、波逆巻く大暴風雨となり、船はいまにも沈没せんばかりの危機に瀕しました。その時お坊さんが何処からともなく現れ、烈風の吹き荒れるなか船のへさきに歩み寄り、一枚の船板に祈念をしながら「南無阿弥陀仏」とお書きになって、怒濤の海中に投げ込まれたのです。すると今まで激しい暴風雨に、船は木の葉のように翻弄されていたのが、嘘のように凪いで静かになり、無事博多津に入港することができたということが書かれております。さらに、当寺の門を入った所に細長い三メートルほどの石の柱が建っております。これを蒙古の碇石といい、善導大師をお迎えされた時、船の持ち主がお地蔵様を彫りこんで、このお寺に納めたといわれております。当寺の始まりには、こうした善導大師像の伝来の逸話が伝えられているのでございます。
鎮西上人が創建された当初は、まだ善導寺という名ではありませんでした。善導大師をお祀りし、百日間の説法をされたので当時を人々は「博多談義所」と呼んでおりました。八十四代順徳天皇が善導大師の高徳を聞かれ、「光明山悟真院善導寺」と勅号されて「善導寺」の勅額を下賜されたのでございます。
以後、度々の兵炎によって勅額、本堂とも消失。文明九年(1477年)広誉上人が、当寺を再建されて中興開山となられました。その間の二百六十余年のことについては、すべて消失したため寺跡や歴史を知るすべがないのが残念でございます。
善導寺は暦朝の天皇及び大内家、飯田家、小早川家などから崇敬を受けており、さらに黒田藩の祈願所として、廃藩置県が施行されるまで深いつながりがありました。現在の本堂や以前の庫裡などは、藩主の建築と思われます。また当寺に菊の紋や筋塀などがありますのは、順徳天皇をはじめ天皇家のつながりを示すものでございます。